ホーム > 日常生活と禅のこころ

日常生活と禅のこころ

“禅のこころ”でより豊かな生活を

“禅”と聞くとお寺やお坊さんをイメージしてしまって敷居の高さを感じたり、実際にはどういうことかわからない…。
そう思っていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。

でも、“禅のこころ”は、ごく普段の生活の中にあります。一日数分、自分の心を見つめる時間をつくってください。

タイプ別“禅のこころ”診断』では、あなたにあった“禅のこころ”を紹介しています。
ぜひ、お試しいただき、実生活に活かしていただきたいと思います。

“禅のこころ”そのものは宗教でも何でもなく、誰の物でもありません。
“禅のこころ”をもっと有効に活用していただき、より豊かな日々を送っていただければと願っています。

マインドフルネス(気づき・念・サティ)

私たち一人のなかに、喜びと幸せを育むエネルギーがあります。誰にでも備わっているこのエネルギーをブッダ(お釈迦様)はマインドフルネス(気づきの力・念)と呼ばれていました。

マインドフルネスとは、現在の瞬間に戻り、今ここで起こっていることを知覚する能力です。「念」とは「いま、ここの心」と書きますね。お釈迦様は私たちの幸せの第一条件は、自分や他人の周りで起こっていることに、いつもしっかりと気づいていることだと、言われました。

あなたはお水を飲んでいるときに、「今、私は水を飲んでいる」と、気づいていますか。愛する人と語り合うとき、あなたは本当にそこにいますか。あなたのこころは桜花や月の光に本当に届いていますか。子どもと話をするとき、その子と一期一会の契りを結んでいますか。あなたが日々触れるものに気づきながら暮らすことができたら、苦しみの多いこの人生の一瞬一瞬が喜びに満ちるでしょう。月は煌々と輝き、子どもの瞳も鳥のさえずりも、花も、友だちも、すべて、いのちを吹き返したように輝き始めるのです。

私たちは毎日、気づきの暮らしではなく、失念(フォーゲットフルネス・忘却)の暮らしをしています。過去の習慣(習気(じっけ))に縛られ、未来に心を奪われて、いつも「今」を忘れて暮らしています。日々の心配事や悩み、怒りにとらわれて、今ここでの人生の不思議をしっかりと見つめる力を失っています。

ブッダの教え、そのすばらしさとエッセンスを普通の人々に分かりやすく伝えてこられたベトナムの禅僧ティク・ナット・ハン師は、こう言われました。「マインドフルネス(気づき)がなければ、すべてがゆめ幻です」と。そうです。仏教の「気づき」の練修は、私たちが今ここで、輝いて生きる(真の「実在」となるための)すばらしい実践的知恵なのです。

息に戻って、微笑む(意識的呼吸と微笑み)

私たちはよく「愛と理解」が大切だと言います。この語順から分かるように、西欧的考え方では愛と理解は同等のもの、もしくはその重要度からまず「愛」、次に「理解」とランキングされています。

しかし、私たち一人ひとりが、そして生きとし生けるものすべてが、「幸福の方向へ」歩んでゆくために、仏教は「愛と理解」ではなく、「理解と愛」と表現します。まず「理解」があってはじめて「愛」が生まれると考えるからです。理解があってこそ愛が生まれるのであって、その逆ではない、というところに仏教のすばらしい方法論があるといえるでしょう。

人を愛するためにはその人を本当に理解してあげることが必要です。立ち止まって相手を深く見つめ、相手の願いや苦しみを理解したときに、そこから本当の愛がはじまります。本当の愛は「慈」(与楽・自分や人に平和をもたらすもの)と「非」(抜苦・自分や人の苦しみを取り除くもの)からできています。

本当の愛(慈悲)を実現するには、理解が必要です。「慈悲」という美しい花を咲かせるためには、まず「理解する力」をトレーニングによって育てなければなりません。ナット・ハン師はこの関係を次のように説明しました。「理解という木を育てるのは気づきであり、非と慈のこころは、その木に咲くもっとも美しい花です」。(『微笑を生きる』P.107)

誰かに腹をたてたり、悲しいおもいをさせられたら、すぐに息に戻って、自分の心の中に起こっている感情を観察し、相手の置かれた情況をしっかりと見つめて気づきを働かせてみてください。自分と相手の情況に気づき理解することができたら、その人への憎しみは消えてその人を愛することができるのです。

気づき+理解=愛という図式ができました。「理解」はいつも「気づき」と一緒に、ほとんど一つのものとして働き、そこから愛が生まれるのです。気づき(マインドフルネス・念・サティ)と理解(アウェアネス・サムパジャニャー)を育てると、愛という智慧を得ると言えるでしょう。

しかしこの図式を言葉で(観念的に)どれだけ説明しても、あるいはアタマでばかり考えていたら、仕合せへの実践力としての智慧は身につきません。瞑想とは、この気づきを育てる練修なのです。
お釈迦様はアタマではなく身体を使ったトレーニングを実践して悟りを得られました。このトレーニングはその後2500年間、現在に至るまで脈々と続けられてきた誰にでもできるトレーニングなのです。それは「息にもどって、微笑む」こと、すなわち、意識的呼吸と微笑む練修です。

「吸って」「吐く」と心の中でつぶやきながら呼吸の練修をすると、あなたの散乱していたこころはすぐに今、ここの自分に戻ります。そして今ここに戻ると、なんだかやさしいきもちになって、微笑むことができるのです。そのときあなたは、自分の中にはじめから咲いていた花(ブッダの心)に初めて出会うのです。

ティク・ナット・ハン師は、『この今こそがすばらしい一瞬』(Present Moment Wonderful Moment)というタイトルの小さな本を書きました。朝目覚めてから、夜眠りに着くまでの24時間をガーター(当サイトでは“禅のこころ”と表記しています)という小さな詩にして唱えるのです。「吸って、吐いて」と意識的呼吸をしながら、そっと微笑みながら、日々の生活の一こま一こまに気づいてみてください。

引用文献

著書「ゆっくり歩いてみませんか?」

Breathe, Smile, and Let go!(息を吸って、微笑んで、手放しましょう。)

著者 池田久代
皇學館大学社会福祉学部教授。
同志社女子大学大学院文学研究科修了(英文学)。1989年よりヨーガ、インド哲学、仏教瞑想を学ぶ。現在ティク・ナット・ハン師に学ぶ瞑想会「バンブーサンガ」共同主催。
訳書にティク・ナット・ハン著『微笑を生きる』(春秋社1995)、『生けるブッダ、生けるキリスト』(春秋社1996)、『禅への道―香しき椰子の葉よ』(春秋社2005)、スティーヴン・A・ミッチェル著『愛の精神分析』(春秋社2004)などがある。

ティク・ナット・ハンThich Nhat Hanh

ヴェトナムの禅僧、詩人、行動する仏教指導者、平和活動家。1926年中部ヴェトナムで生まれる。
ヴェトナムにおいて社会福祉青年学校、ヴァン・ハン仏教大学、およびティエプ・ヒェン(インタービーイング)教団設立。コロンビア大学、ソルボンヌ大学で教鞭をとる。マーティン・ルーサー・キング牧師によってノーベル平和賞に推挙される。
1966年以降フランスに亡命し、世界的規模で難民救出を展開。現在、アメリカ、ヨーロッパを中心に講演活動、仏教指導を続ける。著書は100冊を越える。
邦訳書に『ビーイング・ピース』、『微笑を生きる』、『生けるブッダ、生けるキリスト』、『マインドフルの奇跡』、『禅への鍵』、『禅への道-香しき椰子の葉よ』などがある。